しろラボ

かしこくなりたくてせのびするブログ

怒ることにしがみつく人間の末路とは?|怒ってもメリットはない理由

f:id:sironorisa:20170809042402j:plain

 

 

怒ることには決して正当性がない。ということを教えてくれた本が『怒らないで生きるには』です。

 

スリランカ上座仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老と、漫画家のしりあがり寿さんのちょっとゆるめの対談形式。冒頭には漫画が掲載されており、怒りについての理解を深められます。

 

この冒頭の漫画、一度見たら忘れられないほどの衝撃がありました。小さな少女のワガママから国と国の戦争まで、怒りがどんどん伝染していくオドロオドロしい様子をやさしい絵タッチで描いていますからね。

 

f:id:sironorisa:20170721110237p:plain

↓↓少女のワガママから暴動、そして戦争へ↓↓

 

f:id:sironorisa:20170721110247p:plain

参考画像:『怒らないで生きるには 』amazon販売ページ

 

漫画の一部はamazonで試し読みできます。

 

 ほんの小さな怒りが大きな害悪を呼び起こすことがあるという危機意識を持ったところで、スマナサーラ長老としりあがり寿さんの対談が始まります。

 

なぜ人は怒るのか?

スマナサーラ長老は、人が怒りを感じるのは「自分が期待した目的が妨げられた時」だと論じています。そして世界は期待を裏切り続けるものですから、ある意味生命は生まれつき怒っているとも。

 

ここで対象となっている「怒り」は、私たちが想像するような激情を伴う怒りだけではありません。暗く淀んだ怒り、ちょっと嫌だなぁと思った時に感じる怒りなど、諸々の怒りが含まれています。

 

朝起きた時に眠くて「もっと寝たいなぁ」と嫌な気持ちになるのも「怒り」の一種。こんな些細なことも対象にすると、生命は生まれつき怒っていると言われても納得するのではないでしょうか?

 

正しい怒りは存在するのか?

f:id:sironorisa:20170813223212j:plain

 

スマナサーラ長老は「正しい怒りなど存在しない」とハッキリ断言しています。そんな考えは自分の怒りを正当化したいがための方便だ、と。

 

そもそもなぜ怒らなければならないのでしょう?怒りがなければ正しいことはできないのでしょうか?決してそんなことはありません。人間はわざわざ怒らなくても正しいことができるはずです。

 

長老の言葉を読んでいると、怒り自体が正しくないから、「正しい怒り」など存在しないのだなぁと解釈できます。

 

かのガンジーも、怒りの感情を抱いていたがためにイギリス人ではなく仲間に殺されてしまったそうです。彼は仲間に批判されると、絶食によって抗議していたのだとか。それでは相手もシブシブ怒りを堪えながら謝るしかないですよね。

 

1947年8月のインドとパキスタンの分離独立の前後、宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンディーは何度も断食し、身を挺してこれを防ごうとした。しかし、ヒンドゥー原理主義者からはムスリムに対して譲歩しすぎるとして敵対視された。


1948年1月30日、ガンディーはニューデリーのビルラー邸でヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の一人ナートゥーラーム・ゴードセー(英語版)(नाथूराम गोडसे)らによって暗殺された。

 

マハトマ・ガンディー - Wikipedia

 

 ガンジーの非暴力主義は本当に素晴らしいものだと思います。彼の名言もいくつか拝見しましたが、どれも人格の高さをうかがわせるものでした。

 

世界に大きな貢献した人にもかかわらず、怒りをもって抗議することによって、こんな最期を遂げてしまったのは本当に惜しいことです。

 

怒ってしまうのは自我のせい

f:id:sironorisa:20170809042449j:plain

 

生命が生まれながらにして怒っているのは、自我があればこそです。仏教では「自我は脳の錯覚」と言われていますから、人は錯覚に惑わされプンスカ怒っているということになりますね。

 

「自分が正しいんだ」「自分はこんな扱いを受けるべきではない」という自我が凝り固まっているため、怒りを感じてしまいます。正しさなんて世の中の推移に従って無情に変動してきたにもかかわらず。

 

自我がなければこの世は立ち行かない……と考えてしまいますが、自我を仮定しつつできる限りは薄めたほうが良いと考えています。スマナサーラ長老もこんな風に言及しています。

 

もちろん、仮説として自我というものがあると考えること自体は、問題ないのです。もし、そういった意味での自我さえも認めないというのなら、「私」という主語を使ってコミュニケーションすることもできなくなってしまいますからね。

 

……問題なのは、私たちがそのような仮説のものに過ぎない自我に執着してしまい、実態のあるものと思い込んでしまうことなのです。自我に執着してしまうと、わがままになり、勉強や仕事をする際にもそのパフォーマンスが落ちてしまうことになるのです。

 

『怒らないで生きるには』 p120-121

 

確かに、自分の存在を忘れて仕事に打ち込んだ時は、いつも以上の成果が出せている実感があります。自我を仮説として維持しつつ、執着しないで生きること。そうすれば怒りに囚われず、勉強や仕事のパフォーマンスが高い生き方ができるのですね。

 

怒ると叱るの違いは?

怒らない方がいいと言われると、叱り方がわからなくなってしまう人もいるでしょう。でも、怒ることと叱ることはビックリするほど違います。以下に私の解釈を載せておきます。

 

怒ること

自分の感情をぶつけて相手を操作しようとすること。負の感情に満ちており、感情的、支配的。

叱ること

相手のためになるアドバイスを、あえて語尾を強めたりして論理的に伝える。負の感情はなく、論理的、協調的。

 

 スマナサーラ長老は、正しい叱り方についてこうおっしゃっています。

 

ちゃんと相手に通じる、相手が認める、相手が直す気になる、という三拍子がそろっているのなら、それは正しい叱り方だと言えるのです。

『怒らないで生きるには』 p120-121

 

こう言われると「私ってちゃんと叱ってもらったことがあるのか……?」とちょっと疑問符が浮かんでしまいますね。それと、私はちゃんと叱ったことがあるのか、とも。

 

怒りは我慢するものではない

f:id:sironorisa:20170809042544j:plain

 

怒ってはいけないと思ってしまうと、怒りを我慢することになります。でも、我慢しているということは結局、腹の中に怒りを溜め込んでいるわけです。いつかは爆発してしまうでしょう。

 

では、怒りにはどう対処すればよいのでしょう?

 

最初の頃は我慢でも構いません。いきなり「怒らない」状態になるのは至難の業ですから、我慢によって怒りを抑えて自信をつけましょう。

 

そして第二段階へシフトです。自分の怒りを観察して、シュウッと怒りを消してしまいましょう。

 

仏教の世界では、怒って当たり前という理屈は通用しません。怒った時点で、人間失格なのです。

 

ですから、怒ることは間違いなのだということをまずしっかりと理解して、それから自分が起こるようなシチュエーションに遭遇したら、自ら「あ、怒っちゃった」と気づくようにするのです。

 

そうすれば、怒りなどたちまちにして消えてしまいます。

 

『怒らないで生きるには』 p196

 

怒ったら人間失格!

 

なんとも手厳しいことです。できるだけ人間として生きられるように、怒りをジックリ観察しなくてはなりませんね……。

 

ちなみに観察する以外にも、ユーモアを大切にすることも怒りの対処法になるのだとか。失敗したら笑いに変えてしまう。怒っている自分を笑ってしまう。ユーモアたっぷりな人は、その人本来の明るさを保っており、怒りに囚われていません。

 

怒りから慈悲へ

f:id:sironorisa:20170809042636j:plain

 

スマナサーラ長老は、怒りを超えて慈悲を持つように勧めています。慈悲とは同情とは一線を画す感情であり、深い智慧によって相手の苦しみを取り除こうとする行動でもあります。

 

仏教では、慈しみの心を育てる方法として「慈悲の瞑想」を勧めているそうです。繰り返し繰り返し慈悲の言葉を唱えることによって、慈悲を頭にインプットし、心に刻み込むのです。

 

瞑想と言うからには座って目でも閉じるのかと思いきや、慈悲の瞑想に関しては電車に乗っている間でもできます。慈悲の言葉を何度も繰り返し唱えるか、または念じれば良いだけだからです。

 

結構長いのですが、日本テーラワーダ仏教協会から引用しておきます。

 

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)

 

私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命にも悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回)

 

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

 

私の嫌いな生命も幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている生命も幸せでありますように
私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命にも悟りの光が現れますように

 

生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

 

引用:日本テーラワーダ仏教協会

 

唱えるだけで驚くほど心が落ち着く瞑想なのですが、正直なところ、私はなかなか長続きしません……。

 

しかしこの記事の執筆をきっかけに、これからは最初の「私は~幸せでありますように」くらいは唱えられるように努力するつもりです。このくだり、ちょっとソワソワしてしまうんですよね。

 

怒りのないまったり平和な世界へ

f:id:sironorisa:20170810203555j:plain

 

本書の最後には、スマナサーラ長老からこんなコメントがあります。

 

怒りは破壊のエネルギーです。……原子爆弾のように、何でも破壊するエネルギーなのです。

 

もし人に、怒りのない生き方ができるならば、それは今までの生き方とは完全に違う生き方になるのです。怒りを消すことで、心に慈しみ、思いやり、共存の気持ち、助け合う気持ちがあらわれてくるのです。競争が消えて、心が穏やかになるのです。真の平和が訪れるのです。

 

要するに、人間はいま・ここで、まったく別な人間として生まれ変わることができるのです。

 

『怒らないで生きるには』 p248

 

怒りがなく、慈悲に満たされた人類。なんだかユートピアといった感じですね。こんな人類が住んでいる地球なら、きっと自然豊かでキラキラしていることでしょう。戦争なんて絶対ありません。

 

人間の愚かさを嘆いて怒りを感じるよりも、まずは自分が怒りのない新しい人間に生まれ変わること。生まれ変わった人からは波動のように良い影響が広がり、まわりの人々の怒りをも消し去れるかも知れません。

 

どんな時も怒るべきではない。

怒りのない人生を。

 

関連サイト

 日本テーラワーダ仏教協会